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介護

精神疾患の母が支援に繋がるまで③

精神疾患の母の病気と支援者に繋がるまでの道のり

母が障害区分認定を受け訪問介護へつながり、母が65歳となり、障害区分認定から介護保険へ切り替わり、無事に要介護1の判定をもらった
新しい担当ケアマネはとてもいい人で、頼りがいがあった。
ここからは訪問看護を導入し、さらに母の支援チームが整い、私自身の心の回復を目指す過程を書いていきます


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訪問看護導入まで

2019年あたりから母は一人で精神科へ通院できるようになっていた。
それまでは、月一回の通院も、私が同行していた。朝早く出て、診察までに2時間も3時間も待たされて、人気の病院だった。担当医師も所謂5分診療ではなく、患者の話をよく聞いてくれる先生だった。
母が話をし、横から補足したりしていた。
そうして長く通っていくうちに母一人でも通院できるようになっていた。病院の環境や先生に慣れたようだった。
それでも、母はときどき体調が悪く行けない時があって、そんな時は私が代わりに病院へ連絡し薬だけを代わりにもらいに行っていた。まだ、車を所有していなくて、遠くて、自分は何をしているんだろうと、たまに嫌になる時もあったけど、薬をもらいに行くだけだから、そう思い代わりに行っていた。
そんなある日、病院で看護師に話しかけられた。あんまり覚えていないけど、自分から何か言ったのかもしれない。
母の対応について悩んでいることも確かにあった。「死んでやる」と言われたらどう対応するのが正解なのか、とか、対応の仕方がまだよくわかっていないところがあった。
看護師と別室で話をした。私がしている支援内容を聞かれた。掃除と料理はヘルパーがしてくれていたが、買い物や洗濯、雑用は私がしていた。薬の仕分けもしていた。自分にとっては当たり前だったが、傍から見たらかなりの分量だったらしく私は頑張っているように映ったようだった。
「娘さんも大変でしたね」「娘さんには自分の人生を生きてほしいと思っています」とか言われた
『自分の人生を生きるってなんだよ』怒りがわいた。なんも知らんくせに。
そう、私は、安易に「大変だったね」とか言われるのが好きでなかった。なんも知らんくせに「大変だったね」でまとめるな!という憤りだったのかもしれない。いや、でも認めてほしいということもあったのかもしれない。これまた、矛盾と葛藤

何度か、看護師と面談していくうちに、看護師のほうで訪問して薬の仕分けや私がしている雑務を代わりに出来ないかという提案を受けた。「母が受け入れてくれるかどうか・・・・・」
新しいことが苦手な母。新しい人が苦手な母が、訪問看護を受け入れるのか。無理だな、と勝手に決めつけていた。「やれるもんならやってみろ!」という感覚もあった。けれどもせっかくのチャンスを逃したくないという思いもあった。自分の中で、言語化しきれない思い、けれども心は限界をとっくに超えていたのだろう。いつもお酒に頼っていた私。

訪問看護が入ることに嫌がっていた母。「ほらみたことか」と思ったが、看護師さんもプロ。
当時は二名体制で来てくれて、二人とも精神保健福祉士を持っている人で、精神疾患の人と向き合うのが上手だった。何度も母宅へ訪問し、母が看護師を受け入れ始め、私のしていた「薬の仕分け」「買い物付き添い」を看護師さんたちがしてくれるようになっていった。
そのうちに私も安心して、看護師さんに任せるようになっていった。それと同時に「仕事をとられた」ような喪失感もあった。
そうして、訪問看護がスタートした。現在は、当時の看護師さんたちではなく、精神保健福祉士をもっているひとでもなくなったようで、ときどき母とトラブっているようだが、当時から母を知っている看護師や支援者が間に入り、事なきを得ているようだ。
精神保健福祉士から「娘さんは心配しすぎ」「予期不安が強すぎる」「何かあれば連絡しますから、大丈夫ですよ」と言われ、喪失感もあったが、看護師が介入することで私の心と体も楽にはなっていた

母 精神科へ再度入院 診断名変更

2019年秋。また母がおかしくなった。躁状態
私の支援経過によると、躁状態が続けば、3か月ほど抑うつが来る。2013年からつけ始めた支援経過。
ただ、この時の躁状態は少し度が過ぎていた。「ああ、こりゃだめなやつだ」そんな風にも思っていたが、看護師に相談しても、様子見となる。何度か伝えたけど、駄目だった。「ほらね、なんだかんだいって、なんもしてくれんじゃんか」そう感じた。
2019年12月25日。訪問看護から電話が来た。『母が入院した』と聞かされた。
どうやら最初は任意入院で看護師が話を進めたようだ。母もそれに従ったようだ。
もう少し早くしてくれたら、入院までいかなかったかもしれないのにとも思ったが、いい機会かもしれないとも感じた。
入院手続き、看護師に改めて今までのことを伝える。2013年からつけていた母の支援経過記録も見せ、なるべく波の無いように過ごしてほしいと伝えた。
当初「統合失調感情障害」と言われていた母だったが、入院手続きの書類には「双極性Ⅱ型」と書いてあった。
「双極性Ⅱ型」昔でいう躁うつ病。とても腑に落ちた。たしかに躁鬱だ。
そして任意入院から医療保護入院となり、本人の意思で退院できなくなった。
母へ面会すると「この野郎!騙したな!」と叫んでいた。心の中で「もっとやれー!」と思った
母は人前で暴れることがなかった。私にはひどい暴力をしてきた母だが、人前では猫をかぶっていた。だから、私が母にされた暴力を他人へ訴えても大人は信じてくれてなかった。「あなた大袈裟に言っているでしょ」と嘘つき扱い。『だから大人なんか嫌いなんだ』と益々殻に閉じこもる私
なのでこの時は母を止めることはせず「もっとやれ」と思った。そして、医者の前や看護師の前で暴言を叫びまくる母、ようやく私の訴えを周りの大人が理解した瞬間だった。
約3週間入院した。いい機会だから薬の調整もしてほしいと伝えていた。私が伝えなくてもそうしたと思うけれども、見事に双極性障害の薬へ全て切り替わっていた。

退院後も母は暴れることがあったが、少ししてから落ち着き始めた。どうやら薬があったようだった。
それから、母のことが以前よりも理解できた看護師さんたちのおかげで、ある程度のことを看護師さんたちが私の代わりに支援してくれるようになっていた。
ケアマネと看護師の情報連携もできている様だった。
そうして、母のことを、他人であるケアマネ、看護師、ヘルパーへお任せするように私もなっていた

自分自身の変化 「こどもぴあ」 とのであい

母の支援チームが出来上がり、ひとまず安心した
けれども、どこか、喪失感があった
週に1度は母宅へ行っていたが、気が付くと10日に一回、2週間に一回と行く頻度が減っていった
仕事も忙しくなり、役職にもつくようになり、「自分の人生を生きるとは?」とまだ思ってはいたが、それを模索していくしかないとも思っていた。母のことは他人へ任せた。自分の役割は終わった。じゃあ、自分は何のために生きているのか、よくわからなくなった。それが正直なところだった。お酒の量も増えていた。

2020年 このままじゃいけない。そう感じていた。そうして、翌年、ケアマネジャー(介護支援専門員)の試験を受けてみようと考え出した。何かに打ち込みたかった。親から散々 酷いことをされたけど、親を看るという自分の役割が削がれ、生きる意味が分からない状態。親の支援をやめたら自分には何にも残っていないような、ぽっかり穴が開いたような喪失感。自分必要ないなって思う日々もあった
それを打ち消すかのように、2021年春先から勉強を始めた。そして介護支援専門員の試験に合格した

その間も、母は何事もなく生活していた。支援者に支えられ、本当にいい支援チームができた
ようやく、そう感じるようになっていた。私のやりたいことも母にもう邪魔されることはない。
そう感じていた。ようやく私は自由を手に入れたのか、そう思っていたが、それでもまだ、「自分の人生を生きるとは何か?」わからずにいた。
2021年10月、「精神疾患を持つ子供の会 こどもぴあ」を知った。
母の支援チームは整たが、自分の心の整理はされていないままだった。
「こどもぴあ」にzoomで参加するようになった。
私の通う「こどもぴあ」は語りを中心とするものだった
語ることは治療になる。精神科医の夏苅郁子先生も言っていたように、「こどもぴあ」で自分語りをしていくうちに、心が前向きになっていた。自分のことを自分が理解し始めていた。

母の支援体制が整い、自分のことも整理ができるようになったころには、35歳を過ぎていた
「こどもぴあ」との出会いが、私の人生を変えていった。ありがとう「こどもぴあ」

こどもぴあ (amebaownd.com)

その頃になると、お酒に頼ることも減っていった。
介護支援専門員(ケアマネ)の勉強をしていたこともあり、試験まで飲酒はほとんどしていなかった。
かなり難関な試験だったが、どうしても一発合格したかった。プライドがあった。
職場では真面目で相変わらず通ってて「あなたなら絶対に受かる」と言われていた。
プレッシャーもあった どうしても受かりたかった。
承認欲求が強すぎるのだろうな、無理してでも受かりたかった。そうして、お酒に頼ることも減り、
介護支援専門員に合格して、すぐに「こどもぴあ」にも出会い、「道」をみつけることができた
「自分で自分を知ること」が大切なのだな、そう感じた。
自分の身に何が起きていたのか、どうしてほしかったのか、どうしたいのか、
自分を生きるとは何か、まだわかっていない状態ではあったが、少しずつ、整理されていった心
翌年、夫に出会い、また、人生が動くこととなった。
親の支援体制が整った、タイミング。神様は本当にいるのだなと感じた




コメント

  1. まるまる より:

    こんにちは。

    私のブログにコメントを下さりありがとうございました。
    まるまると申します。

    koyagiさんの壮絶な体験を読ませていただき、感想を簡単に述べることはできませんが、素敵な旦那様と出会えて、赤ちゃんを授かっているとのことで、すごく頑張ってこられて、人の何十倍…何百倍のご苦労をされた分、たくさんの幸せを味わってもらいたいと、心から思います。

    出産前に、こどもぴあと繋がれたことは、すごく良かったですね。
    私も子供を産む前に、自分の過去のケアをしたかったです。

    私も夏刈先生の本を読んで、「語ることは治療になる」という一文が印象的で心に残っています。

    私のブログは、当事者さんも読んでくださっているので、自分の赤裸々な感情は書かないでオブラートに包んだブログです。

    フォロワーさんで、重い精神疾患を患いながら、子育てをしているママさんが、私に「まるまるさんのブログを読み、自分の子供をヤングケアラーにしたくないから、治療をがんばります」
    とメッセージを下さった方がいて、とても嬉しかったです。

    病気があり体調が悪ければ、子育ての余裕すらないかもしれないけれど、せめてご自分の治療を前向きに受け入れてもらいたいですよね。
    それが、子供の為でもあると思うので。

    koyagiさん、お身体を大切になさってください。
    貴重なマタニティライフを充実して過ごせますように⭐︎

    • koyagi より:

      まるまるさん
      いつもありがとうございます

      私の体験はおそらくは大変なものだったのだと思いますが、こうして今があるのは、母と、支えてくれた沢山の人達のおかげだと思っています。
      2年ほど前までは、この先もずっと私は一人で生きていくのだと感じてましたが、
      様々なタイミングが重なり、夫に出会い、結婚し、子供を授かる、まさか自分が こんなに素敵な生活を送ることができるようになるとは 思いもしませんでした。
      しかし、それも やはり、これまでの出会いの積み重ねだと感じます

      精神疾患であった母も、コメントを下さった方も、自身の病気と向き合うのに必死でありながらも 子育てをされていること、凄いなあと思います。体調が悪ければ子育てをする余裕はない、そんな中で子供を育てるというのは本当に大変なことと思います。きっとうちの親も、苦労はかけたくないとの思いもあったろうなあと。それがうまくいかず『駄目な母親ね』に繋がってしまっているのだと感じます。
      母が悪いわけではなく、かといって病気が、ということも なんだか、それもその人であるということを受け入れられたらなあ
      綺麗事では進んでいけないけれども、病気の親も子供も、『普通に』生きていける社会ができあがってくれたらと思います

      自分の経験が、これから 何に役立つかはわかりませんが、
      同じような環境の人や、支援者の方々に、知ってもらい、一緒にこれからを考えていけたらいいなとも思います。

      いつもありがとうございます

      • まるまる より:

        こんばんは。

        返信ありがとうございます。

        病気の親も子も、できるだけ安心して暮らせることを切に望みますよね。

        koyagiさんのご経験や想いが、支援職の方に届くといいですね。

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