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自分自身

もがきつづけた20年 本当に私は一人だったのか

精神疾患の母に育てられ子供時代を過ごした私も、社会に出て約20年となった
精神疾患を持つ親の子供の集い「こどもぴあ」に出会ったのが3年前
それ以前は、私はずっと ひとりで闘っていると思っていた
夫に出会ったのは2年前
それまでは、一人で生きるための人生プランを立てていた。私はずっと一人だと感じていた

18歳 社会人 入社当日言われた「あんたのこと誰もよく思っていないからね」 うつ病発症

2004年春 高校を卒業し社会人となった。信用金庫に就職したが、すぐに躓いた
母が生活保護ということ、18歳以降も実家に残った場合 わたしも継続して生活保護家庭になってしまうため、役所の人から子供は社会人になったら一人暮らしするようにと言われていた。そのため、私は母宅から歩いて通える場所で一人暮らしを始めた。母はそのまま一人で生活保護を継続していた。
今の金融機関がどうかはわからないが、当時は「母子家庭」や「生活保護」は駄目な時代だったのだろう
採用面接で生活保護家庭であり、母子家庭であることを”きちんと”伝えていたはずであり、入社説明会の時に”一人暮らしをする”ということを母から説明していたはずだが、どうやら”きちんと”伝わっていなかったらしく、入社前研修の時に上層部から呼び出され「そういうことなら採用しなかった。」と言われた。だが、もう入社日も間近であり「いま内定取り消しにするわけにもいかないから」とのことで、そのまま入社となった
そういうわけで、入社当日先輩から「あんたのことは誰もよく思っていない」と開口一番言われたのだろう
とくに女性の一人暮らしも認められておらず、先輩も一人暮らしをしたかったようだが却下されていたから尚更 腹の立つことだったのだろう

先輩たちからキツクあたられ、先輩たちの顔色を窺いビクビクする私 →余計にいら立つ先輩 →更にビクビクする私
イジメ、ではないが、私は勝手にそう捉えていたのだと思う。そして うつ病を発症した。
2005年 鬱にて通院開始 当時のことはよく覚えていないが、毎日 吐いて 自死ばかり考えていた
その年の10月 信金を退職。自宅療養

20代前半 職を転々 会社から「明日から来なくていいよ」と首を切られる 

2006年、通院していた病院を自己判断でやめた。そして就職活動。
贈答品店や、車販売店に就職するも、やはりうまくいかず、贈答品店は2か月で「くび」車販売店は半年で「くび」
二度も、「明日から来なくていいよ」と言われてしまった
何が原因か、人付き合いが上手くない性格が原因。もうどうでもよくなっていた

♦20代前半 私の脳みそに何が起きていたのか

自分の身に何が起こっていたのか。結局は「鬱病」だったのだろうなあ、被害妄想だったり、あったのだと思う
何を考えていたのか、よく覚えていないけど、まだ20代前半。
頼る人もおらず、親にも貶されて、自信喪失。どうせ何もうまくいかない、自分なんか生きてたって仕方ない、
自死の方法を調べていたが、結局は実行には移せない。なぜなら、さらに最悪の事態を考えてしまうから
最悪の事態とは何か、失敗して生きてしまった時だ。体に障害を負って、一生 その時のことを言われながら生きていくことになるのではないか、それか、成功したとして、親が発狂して入院しそのまま・・・・親兄弟、親戚、そんなことを考えていたら、実行は出来なかった。それが自分の脳みそに起きていたこと、完全に鬱だった

♦助けてくれる人は実はいた

当時、私より20歳上のご夫婦と知り合っている。生い立ちのことも ある程度知っている人。親とも面識のある人
よく、家においでと誘われて、ご夫婦とお酒を飲み話を聞いてもらっていた。そのご夫婦から「親を捨ててもいいんだよ」と言われたが、当時は「何を言ってるんだ、親を捨てるって、だれが親の面倒を看てくれるんだ、誰もみてくれないじゃないか。何もできないくせに分かったようなこと言うな」と心の中で思っていた
けれども、ご夫婦は助けようとしてくれていたのだと思う。
死のうと思った時、「さようなら」とメールを奥さんのほうへ送ったらすぐさま連絡が来た。夜中だったにもかかわらず、家に呼ばれ、話を聞いてくれた。
「生きとってよかった」奥さんのその言葉に救われた。「生きててもいいのか」半信半疑だったがそう思った
夜中で、私の精神状態も危うかったので奥さんに泊まるように言われ一泊した。
私のために寝床を用意してくれる。言語化が難しいが、温かい愛を感じた。
翌朝、子供たちも起きてきた。ご夫婦はほかの子供と接するのと同じように私にも接してくれた。
「これが普通の家庭か」そう感じたのを覚えている

さらにいえば、高校時代からの友人も、いつも共にいてくれた。良いときも悪いときも隣にいてくれた。
うつ病の私は当時、友人と次々と縁を切っていた。高校時代からの”その友人”とも縁を切ろうとしていた。
けれども彼女はそんな私に「あんたアホだね」と声をかけ続けてくれた。その「アホ」には温かさがあって、励ましみたいなのも含まさっていて、普通の「アホ」とはまた違うニュアンスを持っていた。
いつも隣にいてくれる友人、見守り続けてくれる大人(ご夫婦)
私が気付かないだけで、ほかにも沢山の方々に助けられ、見守られ、支えられてきたのだろう、

私は 本当は ひとりではなかった

当時は、自分のことで精一杯なうえに、親のことも抱えており、全く気が付かなったが、
こんなにも、愛情あふれた人たちに私は囲まれていたのだ

フリーター ギリギリの経験 介護職へつながる道

2007年~2009年 もう社会人なんか辞めてやる!!!!!とバイト掛け持ちのフリーター生活を選んだ
だが、そこでも、私は同僚や先輩から助けられていた。精神的に支えられていた。
3年間のアルバイト生活も紆余曲折あり、勤め先が倒産したり、買収されたり、なんやかんだあったけど、
”普通に生きていたら”経験できないようなことに出会わせてもらっていた
社会に出て2回首、2回勤め先倒産、そんなことある????
それでも、私は生きている。虐待家庭で育ち、若者ケアラーで親の支援をし、何度も諦めかけたが、
それでも、私は生きている。そして、私を見守り続けてくれている人たちがいる、出会う人出会う人に支えられている。
中には嫌な人も、合わない人も、もちろんいたが、それも経験として、後に活かされていく
人生、意味のないことなんてない

「生きていればどうにかなる」という言葉は好きではなかったが、
今は 「生きていれば、どうにでもなる」と思っている

2010年、介護の道へ進んだ
沢山の人たちに支えられ、その人たちに直接 恩返しはできないが、自分も何か社会で役に立つことをしたい、恩返しをしたい
そう思い、介護の道へ進んでいった。親の介護もあったけれども、理由としては、みんなに助けられたからということも一つあった。

この道を歩み 思うこと

社会に出て約20年、
様々な憤りを感じた。親のことや家庭環境のことで差別されることもあった。
親のことが面倒に思うこともあった、自分のことも面倒に思うこともあった。
お酒にも逃げた。もうどうでもいいと思うこともあった。何度も何度も、頭の中で自分をころした
幼少期のフラッシュバックもあった。じぶんばっかり、と思うこともあった
けれども、生きるを選択し続けた
そこには、沢山の人の支えがあった。目に見えない「愛」がそこにはあった
沢山の人に生かされている
一人だと思っていた時代、私は一人ではなかった

苦手な人もたくさんいたけど、これまでに出会ったすべての人に感謝を伝えたい。
全てが経験、自分の糧になっている

そうして、子供を迎えようとしている
こんな自分が本当に子育てをできるのか、不安もある
子供には、こんな思いはしてほしくないとも思っている
こういう経験をしてきた自分だからこそ、できることがあるのではないか、とも思っている

引き続き、どうぞ、見守っていただけると嬉しいです。

♦つらい時期に救われた「詩」

Footprints In The Sand 砂の上の足跡 という詩に救われた
レオナ・ルイス という女性シンガーの歌で涙した
砂の上の足跡、自分の人生で一番大変な時期、一人だと思っていても決して一人ではない、
神様がいるかどうか、それは その人その人の解釈の自由があるのでブログで言うことは出来ないが、
砂の上の足跡、それが神様かどうかは別として、どんな時も本当は私は”ひとりではなかったのだ”と感じている
出会う人、出会う人に支えられていた。そのことだけは、本当に確かだ




図書館で手に取った一冊の本がキ母の病気を理解するキッカケになった 

2021年秋 精神疾患を親を持つ子供として同じ立場の人たちが集まる会に出会った


 

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