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LOLIPOP
母のこと自分自身

精神疾患の母が支援に繋がるまで①

私が子供の頃から精神疾患を患っていた母
当初、聞いた病名は「精神分裂病」のちに「統合失調感情障害」と聞く
その後、2019年、精神科へ入院し「双極性障害Ⅱ型」と診断され今に至る

私が子供の頃から母は感情の起伏が激しく、暴力的で、よく物に当たり散らしていた
どうやら苛立ちを抑えられないらしい。そんなことは子供の私にはわからなかった
怒って暴力をふるっているか、抑うつ状態となり寝込んでいるか、「普通」の状態の母をあまり覚えていない。たまには普通の状態もあったのだと思う。その状態のほうが多かったのだろうとも思うが、私には「怒っている」か「寝込んでいる」どちらかの母の記憶しか残念ながらない。
遊んでもらった記憶もない。怒られている記憶しかない。
そんな自分が親になろうとしている。ちゃんと子育てできるのかしら??

母が支援に繋がるまで長い闘いがあった。
支援につなげようと思うまでに、時間をかなり要した。支援が必要な人であるという認識を持つまで、限界を感じるまで、かなりの時間を要した。一種の洗脳状態だったのかな?言語化するのは難しいけれども、私が親を支えなければならないとどこかで思っていたようにも思う。それは、自己防衛もあった、承認欲求もあったのだろう。
14歳の時、母がおかしくなって入院したあの日、兄から言われた言葉。「お前のせいで親が入院した」と兄に小突かれたこと。「なぜ気が付かなかったのか」
確かに、思い返せば、入院する前から母は徐々に壊れていった。確かにおかしかった。
 バスジャックが起こった。その時も母が”おかしく”眠れない。私が母の相手をするのが面倒になってテレビをつけたら そこにはバスジャックの映像が映っていた。母が更に”おかしくなった”
新聞社やテレビ局、いたるところに電話をかけている母。「バスジャックの犯人を知っている」「捕まえないで」「あの子は悪くない」などなど、”おかしなこと”ばかり言っていた。当然 電話口の人間は相手にしていない様子でもあった。バスジャック、あれはいつのことなんだろうか???
とにかく、そんなことがあった。
そのあとはお金遣いが荒くなった。しょっちゅう回転ずしに連れて行ってくれたし、お金もバンバンくれた。気前が良くなっていた。今思うと、あれは躁状態だったのだろう。
それからしばらくして、トイレの中で独語を言い出てこない母、お寿司が来るよと言っていた。
後は幼少期に戻っているような母がそこにいた。私は手あたり次第、知り合いの大人へ連絡をした。最初に来た夫婦、母を無理やりトイレから引き出して布団に寝かせ、男の人が母に馬乗りになった。
私はベランダに出て、もう飛び降りてしまおうとすら思った。
私は蚊帳の外、知り合いの小屋に一人連れていかれ、一晩を過ごした。戻ってきたら、母は精神科に入院していた。大人はなんも教えてくれなかった。そして私は責められた。
そんなことが私が14歳の時にあった。

それから時は流れ、2013年。
また母が”おかしくなった” 暴力的。被害妄想。抑うつ状態。
いつものことと慣れっこになっていた私も、さすがに”おかしいぞ”と思うような言動の母
かかりつけの病院に連れて行ったが、そこは入院設備のない病院。万が一のことも考えた
ここでは書けないような”自死”の方法をいくつも試している様だったので危機感があった
母をだますような形で入院設備のある病院へ転院させることができた。滅茶苦茶 暴れてた母も どこか諦めたのか仕方なく転院を受け入れたようだった。
薬の変更はなかったが、転院先の担当医と相性があったらしい。その先生は、いわゆる5分診療の先生ではなかったこともあり、待ち時間はかなり長かったみたいだが、それなりに母の話を聞いてくれたようだ。

そうして2年が経った2015年。私は転職をしようとしていた。
2010年ごろから介護職に就いていた、介護福祉士を取得し次のステップへ進もうとしていた。
だが、いつも職場と母宅と自宅を往復しており、仕事終わりに母のところに行き作り置きをし、休みの日に家事をし、自宅では自分のことは全く手が付いていない状態だった。お酒に頼り、気を紛らわす毎日。転職をするとして、また新しいことを覚えていかねばならず、この生活でやっていけるのか。
むしろ、もう母を看ることが苦痛になっている私がそこにいた。まだ車を所有しておらず、歩いて職場から母宅へ行っていた。冬場も30分以上かかって、その間に母宅の買い物をして、母宅帰りに自分の買い物をして、北海道の冬は寒い。そうだな、冬場は特に嫌だった。母宅が見えてきたら、歩道で立ち尽くしたり、買い物袋を捨てて自宅に帰ろうかと思ったり、足が重たかった。
私は次のステップに進みたかった。けれども親のことも看なければならない。
職場の上司に首覚悟で相談をした。親のことを誰かに話す、怖かった。
大人なんか信用していない。どうせ綺麗ごとを言われるだけ。なんも知らんくせに偉そうに
それでも、話すしかなかった。助けてほしかった。抜け出したかった。次へ進みたかった。それができないなら、全てを投げ捨てて消えるしかない。私が消えてしまっても、母はなんとか生きるだろう。そう思っていた。矛盾と葛藤。なんのために生きているのか、なんのために・・・・苦しかった
意を決して上司へ相談。思い他 親身に聞いてくれた。特にアドバイスがあったわけじゃないけど、自分の中でスッキリした。私は誰かに話したかったのか。

2015年。母へ転職したいと伝えた。今までのように支援できなくなると思うことを伝えた
「私を捨てるの?」「お前なんかどこに行ってもうまくいかない」「転職なんてやめなさい」
結構な反対を受けた。怒りがわいた。社会に出て、苦労しながらも、もがきながら、なんとか生きて、何事もないようにふるまって、真面目に真面目に生きて、信頼を勝ち取ってきた。
「人の苦労も何も知らんくせに」「あんたのせいでどんだけ苦労したか」言ってやりたかった。言えなかった
でも、諦めたくなかった。私は次へ進みたかった。そして、母のことを看ることにも限界を感じていた
何度も、何度も母と話をした。怒鳴られながら、拗ねられながら、諦めず母と話をした

それからしばらくして、訪問介護導入を許可してくれた母。意味は分かってなかったのかもしれない。他人が家に入るなんて嫌!!!!と拒否していたが、珍しく折れない私に、母も諦めたのかもしれない
「私はだめな母親ね」それが口癖だった母。母の中で子供を縛ってしまっていることに苦しさもあったのかもしれない
そうして、2015年 役所へ連絡し、障害区分認定を受けることになった。



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