母の病気と2015年までの道のり「精神疾患の母が支援に繋がるまで①」からの続きになります
今回は、2015年の障害区分認定を受けてからのこと、2019年介護認定を受けた時のことを中心に書いていきます
精神疾患の母が障害区分認定を受け、2019年65歳介護保険を受けるまでの過程と思い
2015年 障害区分認定を受ける
2015年 母を説得し、なんとか役所へ連絡。障害区分認定を受けることになった。
<障害区分認定は障害を抱えている人に必要な支援を提供できるようにというもので、段階的に1~6まであり、6が一番重たい。当時の母はまだ65歳前だったため、介護認定ではなく障害支援区分認定を受ける必要があった。区分認定を受けることにより訪問介護や様々な支援を受けられるようになる。>
早速、役所から3名人が来た。介護保険でいう『認定調査』のようなもので、身体能力や精神的なことを沢山質問された。
母は終始、私の手を握り「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と甘えた声を出していた。
ストレスもあり、子供返りでもしていたのだろうか。母も親に甘えたことのない人だったらしく、私は時々、母から抱きつかれたり、母親代わりや姉代わりをさせられていた。(嫌だったけど)
母が甘えたおかげもあったのか、障害区分4という判定が出た
障害支援相談員が二人きた。訪問介護などについての説明を受けた。
それから、すぐに訪問介護がはじまった。週2回90分。掃除と調理。
だが、そんなに簡単なものではなかった。
訪問介護を受けられるようになるも・・・・
母はヘルパーさんと幾度となくトラブルを起こした。
「なすが一本多く使われた」だの、なんか私にとっては「どーでもいいこと」
その都度その都度、母から電話が来た。昼夜問わず、電話が来てヘルパーさんの悪口を聞かされた。
何人か、ヘルパーさんを交代するしかなかった。母に我慢しなさいとは言えなかった。せっかく入ってくれたヘルパーさんだが、我慢を強いて「もうくるな!かかわるな!」とまた母が殻に閉じこもってしまう気もしてた。そうこうしているうちに、最初に契約したヘルパー事業所のサービス提供責任者から「もうお母さんを看ることは出来ません」と契約を切られてしまった。
その時の提供責任者は「もう、私たちはお母さんを看れなくなりました。どうしたらいいですか?娘さん」と投げかけてきた。
「そうなりますよね」と思って、なんか、どーでもよくなって、契約解除で了承した
それから、障害支援相談員へ伝え、別の事業所を紹介してもらった。
もちろん、そんなにうまくはいかない。また、母とヘルパーのトラブル。なんでかなあ
本当に、どーでもよくなって。言語化できないけど、なんか、すごく腹がたった
そんな時に、ヘルパー事業所のサービス提供責任者(サ責)が交代となり、ヘルパーと母がトラブルを起こした時、母がおかしくなって、私がヘルパー事業所のサ責に連絡すると、夜にもかかわらず母宅に来てくれた。そして、母の話を傾聴してくれた。大きな経験となった。
私も介護の仕事をしていたが、気が付かなった。傾聴の姿勢がこんなに大事なものなのかと思わされた。サ責が母の話を聞いてくれた、そして母は落ち着いたのだ。「この人、自分の話を聞いてほしかったのか」馬鹿にされていると思っていたのだろう。自分はだめな人間だと、思っている母。そういう話をただ黙って聞いてほしかったのだ。認めてほしいとか、肯定してほしいとかそういうことではなく、「ただ話を聞いてほしい」そういうことなのか、と思った。そして、このサ責なら信用できる。そう思った。
2019年 母65歳 障害区分から介護保険へ切り替え
それから時は流れ、母が65歳となる年、障害区分から介護保険に切り替わる。
障害から介護に変わると今までのような時間数では対応してくれないということは知っていた。
そこでまた、転職先の上司へ母のことをカミングアウト。もう自分では対応しきれなくなっていることも自身で把握していた。ヘルパーさんは来てくれていたが、細かい雑務は私のほうでこなしていた。それがまた、全て自分に戻ってくるとなると、とってもじゃないがやってられない。
上司へアドバイスをもらい、どうにか認定調査を切り抜けそれなりの区分をもらわなければならない。
障害の担当者はついていたが、その人は障害の担当の人。これからは介護保険の担当者を頼らなければならない。自ら地域包括センターへ行き、話をきいた。母のことを大方話し、かなり癖のある人であることを伝え、それなりの経験をもっているケアマネさんをつけてくれるようお願いした。
要支援になっても、要介護になってもなんとかなるように。
そうした甲斐もあり、いや本当に運よく、とてもいいケアマネさんに出会うことができた。居宅介護支援事業所の管理者、ちょっとやそっとのことでは動じない人。
どうしたら要介護をもらえるか、ケアマネさんと相談を何度もした。自分が介護員であることも伝えた
♦認定調査を受けるにあたって家族としてできること
・家族から認定調査員に状況を伝える場合、漠然と伝えるのではなく「週に何回、入浴しているか」「週に何回落ち込むことがあるか」「料理は週に何回作れるか」など、具体的に伝えることが大切だと言われた。ただ、うちの親はある程度の家事ができる。調子の悪いときは抑うつ状態で寝込んでいるから全くできない。その、抑うつ状態で寝込んでいる時のことを調査員に伝える必要があった。困っていることを具体的に伝える。
・本人の前で話せないことは、認定調査後に調査員へ連絡し補足として伝える。または事前にメモを用意しておいて、調査の後に調査員へ渡す
なぜ、調査の前に伝えたらだめなのかというと、調査員に先入観として入ってしまい、重点的に伝えたことを聞かれる可能性がある。本人はそこまで意識していないかもしれないが、認定調査員の前ではシャキッとするのが大体の人。普段できないことも何故か出来てしまうのが認定調査あるある。それじゃあ、必要な介護は受けられない。嘘はついちゃだめだけど、多少盛る必要がある。ということ。
これは、自身もケアマネとして働いたときに感じた。
母が要介護1の認定を受けた
そういうわけで、当時のケアマネさんのアドバイスもあり、母は要介護1をもらうことができた。
そして、ケアマネさんのおかげで、本来なら訪問時間が減ってしまうところを、障害区分を受けていた時と同じように週2回90分づつ、料理と掃除で支援者が入ってくれることとなった。事業所も変えず、人も変えず、同じヘルパーが来てくれることとなった。これはとても良いことだった。
母は新しい人が苦手、人に慣れるのに時間のかかる人だから、同じ人が来てくれることはかなりの救いとなった。また、ケアマネさんが月一回訪問するときは、必ず私も同席することとし、母の様子を正確に伝えられるように、引き続き、母の支援経過記録を自身でも書いていた。
「娘さんも大変でしたね」ケアマネさんはそう声をかけてくれた。母の様子も見ていて、ケアマネさんに慣れていく母をみて、ガールズトークしている母をみて、この人がケアマネで良かったと感じた。現在も、同じ人がずっとケアマネを担当してくれている。私は母とケアマネさんのやりとりをみながら、また、私に対しても気にかけてくれるケアマネさんをみながら、自分もこういう人になりたいと感じ、のちにケアマネになった。
振り返り 大人になる子供たち・支援者へ
ここまで、思い返してみたら、私は当時まだ20代だった
このころの自分に、よくやったと声をかけたい。ありがとうと声をかけたい。
キミの判断は間違っていなかった。バランス感覚いいな、君のおかげで今がある。
頑張ってくれてありがとう。諦めないでくれてありがとう。
いま、頑張っている人たちに、子供の支援者、子供の立場の人たちにも 助け手が与えられるように願う。
親だけを救うんじゃなくて、子供の声も大人が聞いてくれることを願う。
親の病気のこと、子供にも分かりやすく伝えてくれるように願う。
誰にも言えず、苦しんでいる子供が沢山いるだろう、苦しさすら麻痺ししている子供たちが沢山いるだろう、
どうか、どうか、子供たちにも、支援の手を
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